監督
1939年7月30日ニューヨーク生まれ。映画監督、映画評論家、俳優、プロデューサーとして幅広く活躍。若くして得た栄光と挫折、悲劇、そして復活。ハリウッドでも唯一無二のキャリアの持ち主である。5歳の頃から映画好きだった父に連れられMoMAニューヨーク近代美術館で映画を観始める。15歳の夏休みには俳優として名優たちと地方を巡業。その頃、町の名画座でチラシを作り番組編成を始めた。
21歳で、『市民ケーン』(41)の監督オーソン・ウェルズのアメリカ初の回顧上映をMoMAで企画(数年後にウェルズ本人から連絡を受け友人となる)。映画の知識と文才を武器にライターとして様々な撮影現場を取材。『駅馬車』(39)の巨匠ジョン・フォードや名優へのインタビュー、映画評をエスクァイア誌に寄稿する。
64年、ハリウッドに移住。「B級映画の帝王」と呼ばれる映画監督であり、プロデューサーのロジャー・コーマンに「監督する気はあるか?」と問われて即答。29歳で「殺人者はライフルを持っている!」を製作・脚本・監督・出演。ゴダール、トリュフォー、ロメールらと同じく、批評家から映画監督に転身する。
71年『ラスト・ショー』ではアカデミー賞®8部門にノミネートされ、翌72年の『おかしなおかしな大追跡』はハワード・ホークス調のコメディで大ヒットを記録。続く73年『ペーパー・ムーン』は全米年間興収1位となり、テータム・オニールが史上最年少で米アカデミー賞®助演女優賞を受賞するという快挙を成し遂げた。弱冠34歳の天才監督は頂点に立とうとしていた。
しかし当時の恋人だった女優シビル・シェパード(『タクシー・ドライバー』(76)ドラマ「こちらブルームーン探偵社」(85~89))を主演に迎えた「デイジー・ミラー」(74/未公開)は酷評の嵐で興行的にも大惨敗となり、さらに続く2作品も失敗し大きな痛手となった。
シンガポールで娼館を経営する男を描く「セイント・ジャック」(79/未公開)は好評を博した。この映画の主演ベン・ギャザラと再び組み、当時ギャザラと恋仲だったオードリー・ヘプバーンの共演で「ニューヨークの恋人たち」(81/未公開)を監督。自身でも最もお気に入りのこのロマンチック・コメディで、20歳年下の女優ドロシー・ストラットンと恋に落ち婚約。しかし撮影1か月後、ドロシーは嫉妬に狂った別居中の夫に惨殺された。
ドロシーの死後、家に閉じこもっていた彼に『ラヴ・ストリームス』(83)の撮影の一部を無理やり任せたのは友人の映画監督ジョン・カサヴェテスだった。「2年ぶりに撮影現場に復帰できたのは、ジョンのおかげだったのだ」と後に知る。
以降、俳優としての活動や数々の著作を発表。2001年に8年ぶりの長編映画『ブロンドと柩の謎』を監督。
「過去を生き続けさせることが、主に私が目指すことだ」と本人が語る通り、先人たちへの顕彰と作品保存への貢献に対し、07年に国際フィルムアーカイヴ連盟賞(FIAF賞)を受賞。映画の博識を活かし現在も積極的に発信を続けている。     
「殺人者はライフルを持っている!」(68) 未公開・DVD化
『ラスト・ショー』(71) *米アカデミー賞®監督賞ノミネート、助演男優賞、助演女優賞受賞
『おかしなおかしな大追跡』(72)
『ペーパー・ムーン』(73)*米アカデミー賞®助演女優賞受賞
「デイジー・ミラー」(74) 未公開
『ニッケル・オデオン』(76)
「セイント・ジャック」(79) 未公開
「ニューヨークの恋人たち」(81) 未公開・ビデオ化
『マスク』(84)
『ロブ・ロウのおかしな探偵物語』(88)
『ラスト・ショー2』(90)
「愛と呼ばれるもの」(93) 未公開・DVD化
『ブロンドと柩の謎』(01)      
監修:東京国際映画祭 田中文人